『扉を開いて』
暗く深い海の底。僕はそこの中に沈む灰色の箱の中で猫のように丸くなる。そこは光すら届かず、温度も一定で、変化のない世界。僕はただひたすらに、時の通り過ぎるのを待つだけだ。
いつのころだっただろう。僕の手を取って箱から外へ出そうとする細い腕が現れるようになった。背後からは柔らかな光が差し、かすかな波紋が生じている。僕はその腕を何度も振り払う。……僕に構わないで。僕はこのままでいい。僕は……、僕はすべてに失望してしまっているのだから。
「夢、か……。」
ふと目覚めると、そこは見なれたアパートの天井。ああ、今日も僕は生かされてる。窓の外を見ると夜が白みはじめて、周囲に色をつけていく。さあ、そろそろ起きよう。今日は入学式だ。新一年生を担任することは事前の職員会議で決まっていた。果たして、どんな生徒たちが僕のクラスに入ってくるのだろうか。……僕にしては珍しい。期待と不安、こんな感情を覚えたのはいつ以来のことだろうか?
入学式が終わって、生徒たちの待つ教室へと向かう。教室に入る前に渡された名簿をざっと読む。僕の受け持ちクラスは選択科目の関係だろうか、一人を除いて中等部からの持ち上がりのようだ。その一人の生徒はちゃんとその人間関係の輪に溶け込めるのだろうか、ふと不安を覚える。日本の社会は、基本的によそ者を拒む。現に僕がそうだ。うわべでは付き合うけれど、深くは付き合おうとしない。僕は誰とも深く付き合おうとは思っていないからいいけれど。……さあ、扉を開こう。今日から新しい一年生たちとの生活が始まる。
教室の扉を開けると、そこは真新しい教科書の匂いがした。挨拶を始めると、ざわめき始める生徒たち。ある女子生徒の「付きあってる人はいますか?」の質問は予想されていたこととはいえ、本当に質問してくる生徒がいることになぜか安心してしまう僕がそこにいた。……僕には深く付き合う気はなかった「過去の話」だ。だからだろう、彼女が連絡を取る気すらなくしてしまったのは。……いや、考えるのはよそう。今の僕は「高校の化学教師」なのだから。
自己紹介シートを配ろうとして、職員室に置いてきてしまったことを忘れて。慌てて取りに戻ると案の定、教頭が僕の顔を見て苦笑いする。……すみません、すぐに戻らないといけませんから。そう言ってそそくさと職員室を抜け出す。ああいう粘着質な人間はどうも苦手だ。未だに体育祭での件を根に持っているようで、何かあるたびにそれを持ち出してくる。ああ、嫌だ嫌だ。早く教室に戻ろう。
シートを記入してもらっている間に、一人ひとりの名前と顔とを見比べていく。顔を見て、名簿を見て。一生懸命な姿が僕にはうらやましくもあり、妬ましくもある。……次は、ああ、彼女だ。この学級唯一の高等部から入学の生徒だ。さらりとしたストレートの髪を肩の長さで切りそろえ、どちらかといえば線の細い感じの骨格で。いまどきの子にしては珍しく背筋もピンとしているのが好感を持てる。……さて、次は、と。
一通りの自己紹介をしてもらって、HRも終えて。帰り支度を済ませた生徒たちが三々五々家路についていく。僕はいつもの定位置である化学準備室からみんなを見送る。
「ちゃんとまっすぐ帰るんですよー!」 「はい、さようなら。また明日ね!」
そんな日常のやりとりを今日からまた繰り返していくのだろう。……と、思っていたら、化学準備室をノックする音に気づいた。 「若王子先生……。」
扉を開けると、そこには彼女が立っていて。 「や、どうしたのですか?もうみんな帰って行きますよ。さあ、君もそろそろ帰らないと……。」
「……そうですよね。なぜ、私ここに足が向いちゃったんでしょう。もしかして、迷惑でしたか?」 ぼんやりと、少し小首を傾げる。
「迷惑じゃないですけれど……。先生はまだ仕事があって帰れないんです。だから、気をつけて帰ってくださいね。」
微笑む表情はまさに無垢というのか、純真というのか。なぜかこちらの心まで洗われるような気がする。 「はい。若王子先生、失礼します。」
そう言って、準備室から出ていく背中を見送る。そこにはどこからともなく暖かい風が桜の花弁とともに舞いこんできた。
(終わり)
若王子先生、入学式当日のイメージです。
最初に教室に入た時点で、デイジーのことを少しは意識したんじゃないかと思われますw
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