蒼い月の下で 本文へジャンプ
『I wish……』
Rrr…
(誰だろうこんな時間に)
携帯の発信者名は、と…。
「もしもし?」
「貴文さん、誕生日おめでとうございます。もしかして起こしちゃいました?」
彼女からだ!思わず飛び起きてしまった。
「いいえ。うつらうつらしてはいましたが…。」
嘘。本当は眠りそうだった…。そばで丸くなっている猫たちを邪魔しないように、そっと。
「今日、学校に行ってもいいですか?」
もちろん。むしろ大歓迎。
「いいですよ。部活に来る?」
「そうですね……。迷惑じゃないですか?」
あれ……躊躇、してる?ここは僕がしっかりしないと。
「大丈夫です。僕に任せて。」
電話口の向こうで、少しほっとしたような吐息が聞こえた。
「では、おじゃましますね。おやすみなさい、貴文さん。」
「おやすみ。」
…今日は眠れそうにないな。でも、少しでも休んでおこう。

「若チャン、おはようございます!」
「おはよう、みなさん。」
「あれ、若チャン目が真っ赤だよ?どうしたの?」
「あ、本当だ…」
ざわざわし始めた。えっと、こういうときは…先生の特権を使おう。
「こら、みなさん。HR始めますよ!今日は…」
ふう、なんとかごまかせた…。

やっと、昼だ。今日も購買に急いで…、と。あれ?あそこにいるのは…
「天地くん!」
「あ、若王子先生!…目が赤いですよ。」
「や、ばれましたか…」
「もしかして、今日って、デート?先輩と。」
そういえば…、天地も彼女のことが好きだと後から聞いたのだった。
「ぴんぽんです。君にはかないませんね。」
「先生…、ちゃんと先輩のこと、捕まえておかなきゃ知りませんよ!もしものときは僕が取りに行きますからね!」
「大丈夫です。ちゃんと交際宣言していますし。君も知っているでしょう?」
卒業式の後、僕に彼女がいることを公表した。彼女はそんなことまでいいですよ、なんて言っていたけれど、こういうことははっきりさせておいた方がいい。 余計な波風は少ない方が安全だ。
「はい。でも、先輩って『羽ヶ崎学園・彼女にしたい人NO.1』だったんですからね。僕以外にも狙っていた人、いっぱいいますから。」
そうだった。僕も正直なところ、彼女にはすでに特定の人がいると思っていた。特にプリンスと呼ばれていた佐伯瑛くんとかなりいい感じで。あとから聞いてみると、実際には仲の良い友人で、特別な感情を持っていたわけではない、そう言っていた。
「ははは。そうでした。ごめんなさい。」
「おかげで僕大変なんですから。では失礼します。」
この学校には各学年に「プリンス」などと呼ばれる男子生徒がいる。彼もそのひとりで、今では同級生はおろか、下級生・中等部にもファンクラブがあるのだそうだ。
「じゃあね、天地くん。」
僕は購買に行かなきゃ。…一番人気のパンは、もう売り切れだろうけれど。

さて、今日も授業はおしまい。約束した通り僕は陸上部が練習するグランドへ向かおう。彼女がインターハイで優勝してくれたおかげで今年は入部希望者が多かったな…。結局、残ったのはいつもの人数くらいだった。
「あ、若チャン」
ちょうど中庭を通り抜けようとしていたところに懐かしい声を聞いた。
「あれ?真咲くんじゃないですか。お花の配達ですか?」
アンネリーの緑のエプロンがよく似合っていて、もう一人の女性店員とともにアンネリーの看板娘、なんて言われていた。僕は彼女によく「食べられるハーブのコンテナガーデン」を作ってもらった。そういえば彼も彼女のことが好きだったらしい。
「そうですよ。あれ?若チャン、目が赤い。ははーん、さては昨夜…」
「ち、違いますよ。なんだか眠れなくって。」
「じゃ、今日、デートの約束している、とか?」
す、鋭い…。さすが僕の元教え子…。
「ううっ。やりますね、真咲くん。」
「やっぱりな。ま、俺にはもう手の届かない子だから、いいけど。まだ配達途中なんで、また。」

陸上部はいつの間にか僕が顧問を引き受ける形になっていた。まあ、個人競技は嫌いじゃない。僕の仕事は主にタイムの計測だったり、フォームの確認だったりなのでなんとか務まっているようだ…。僕がいなくてもみんな自主的に練習をしていてくれる。
「おや?若王子君。今日は陸上部にいましたか。」
僕をこの学園で一番苦手な教頭だ…。相変わらず、嫌味を言いに来たのだろうか。無理もないか。いろいろとあったからな。ちょっとだけ、かちんと来るけど。
「はい。僕は陸上部の顧問ですから。それよりも、何か御用でしたか?」
僕は努めて心の中の悪魔を出さないように気をつける。
「最近、君の…」
今日の説教も長そうだ。この禿メガネ、校長になりたくて理事連中にゴマをすっているともっぱらの評判だ。生徒たちにもその噂は流れているようで、裏では散々な言われ方をしている。全く、困ったものだ。仕方ない、少しでも早く終わることを願うとしよう。
「教頭先生!理事長がお呼びでしたよ!」
「そうですか?お花屋さん、ありがとう。」
「いえいえ、どういたしまして。理事長室でお待ちですよ。」
ふう、助かった。
「真咲くん、ありがとう。」
「若チャン、危なかったな…。たった今理事長室に配達してきたときに、な。本当は急ぎでもなかったみたいだけど、若チャンの横に天敵がいるのが見えたんで。あ、店から電話が入っているんで…。また、今度!」
「じゃあね。真咲くん。」
慌てて電話を片手に走り去っていく後姿を見つめながら、汗を拭く。そうだ、グラウンドへ急がないと。いつもよりもほんの少し急ぎ足で中庭を通り抜ける。

さて、彼女が来ることを部員達に伝えようとしてグラウンドに来たらすでに人だかりができている。もしかして…?
「若さま先生、遅いですよ!」
「先輩、来ていますよ。」
そうだ、まだ大学生って夏休み……。
「若王子先生、お邪魔しています。」
学校内ではこうやって呼ぶことにしてもらっていた。彼女からこう呼ばれるのは半年ぶりになる。
「やあ、いらっしゃい。」
残暑とはいえ、確実に空の高さを感じられるようになってきた。一流体育大学からも誘いを受けていた。でも、彼女は「他にやりたいことがある」からといって、結局一流大学に通っている。今でも佐伯くんなどと交流があって、彼らのその後の話を聞くとまるで僕も大学生になった気分だ。実際、学食に潜り込んだこともあったけれど。

キーンコーンカーンコーン…。
「皆さん、そろそろ帰りましょう。時間ですよ。」
「はーい。…あ、若チャン、今日は先輩と一緒に帰りますよね?」
「当たり前のこと聞くな、って。邪魔しちゃ悪いぞ!」
「じゃあ、せんせー、バイバイ!」
「はい、皆さん気をつけて帰るんですよ。寄り道しないでくださいね。」
僕がふわりとほほ笑むと、みんな言うことを素直に聞いてくれる。純粋な目をした彼らを僕は羨ましく思う。……僕には、きれいな思い出は、ない。少なくともこの街に来るまでは。

「ごめん。待たせたね。じゃあ、行こうか?」
「はい。…あ、そうだ。一か所寄りたいところがあるんです。」
「いいですよ。」
「今だから話しますけれど、ときどき友達と帰りに喫茶店でおしゃべりしていたんですよ。」
うちの学校は下校時の寄り道は禁止。だが、それはあくまで「校則」上のことで、実際には寄り道している生徒がほとんどだ。風紀委員をしているものですら例外ではなかったらしい。
「本当は、貴文さんとも一緒にお茶したかったんですけどね。」
先生でなければ。幾度となく、そう思った。だけど、そうなると彼女とはいったいどこで出会うことになるのだろう?運命、だったのだろうか。無意識のうちに、僕は表情をこわばらせていたようだ。彼女が不思議そうに僕を覗き込んでようやく我に帰る。
「こら。でも化学室で一緒にコーヒー飲んだでしょ?」
「あのときは、ごちそうさまでした。」
夕日が少し傾いていた。卒業式の日、僕が告白したときから、僕らの恋愛が始まった。本当は、もっと前?君と出会った入学式の日かな。あの時のコーヒーは…君をもっと知りたかったから?少なくともその頃には視界の中に彼女の姿がないか、いつも気にしていた。

帰り道、そっと彼女と手をつなぐ。彼女の手は柔らかくてそれでいて温かい魔法の手。この手が僕をこの世界につなぎとめていてくれる。僕が過去のことを話したときは黙って僕の手を握っていてくれた。まるで辛いことを共有しようとしてくれているようだった。君の手から僕はいろいろなことを知った。以前の僕なら人の醜さを見たくないからとあまり他人を信じていなかった。この魔法の手に出会ってから人を信じることの大切さを知ったような気がする。
君は僕に似ている。
少しだけおっちょこちょいで猫みたい。でも、ずっと僕より大人なのかもしれない。君にはいろいろ教えられてばかり。僕の生徒だったのに、君は。君が思っている以上に僕を幸せにしてくれる。 つぶやきが聞こえたのか、朱を帯びた彼女の頬にそっと口づける。
赤く染まる夕日の中で。……行こう、僕らの未来へ。


実はこれ……一番最初にmixi内で全体公開したものです。
なので、原本の方を読み返すとものすごく恥ずかしいw

若王子先生って、家庭の温かさとかに餓えていそうなのできっとデイジー家に入り浸りそうな気がするのは私だけでしょうか?