蒼い月の下で 本文へジャンプ

SS 『月光を浴びて』(若王子・過去)

 いつのころからだろうか。僕の世界が無機質なもので構成されるようになったのは。たしかに「一般的な」四季の移り変わりや、「一般的な」色、匂い、温度は感じる。でも、それはすべて数値に置きかわってしまうんだ。生きている、と言っても僕の場合は生命を維持するという程度の意味にしかすぎないものだ。
 今日はどこに行こうか。ふらふらと僕は猫のように彷徨う。僕は土地や人間関係といった「しがらみ」というものに固執しない。ふと見つけたやわらかな草地に寝転んで夜空を眺める。……そういえば、いつから声を出していないのだろう。声はどうやって出すのだったかな、と呟いてみる。何とか声らしきものが、僕の口から音声として発せられたようだ。
 夜空の月を見つめると、僕はいかにちっぽけな存在なのだろうと思ってしまう。……僕の人生、いつになったら終焉を迎えるのだろうか。そんなことまで考えてしまう、自分に嫌気がさす。そう、僕には「生きる」ことにすら執着心がない。かといって、わざわざ無下に自らの命を失くす気にもならない。あえていうのなら、無気力という言葉が一番近いのだろう。
 どこから来たのか、猫が僕を見つめる。……あれ?笑った?気のせい、だろうか?それとも僕は幻影を見ているのだろうか?でも、僕のそばで鳴く声はたしかに猫のものだ。抱き上げようとすると、僕の手からするりと抜けていく。振り返って僕を見てにゃーと鳴く。……え?こっちへ来いって?そう聞こえた気がした。彼を追って草むらを出て少しづつ丘を駆け降りる。空の月明かりを頼りに、足元を取られぬように。時々、僕を心配そうに見つめる彼を追いかけて。
 いつの間にか、潮の香りのする街に来ていた。でも彼は止まらない。月は少しづつ傾き、だんだん暗くなっていく。……ねえ、待って。どこに僕を連れて行こうとしているの?僕は……眠いよ……。もう、休ませて……。

「気づきましたか?」
僕はどれくらい眠っていたのだろう。たしか僕はどこかの公園らしき場所で猫を追いかけていたはずなのに、今は久しぶりに味わう柔らかなベッドの上。ここは……どこなんだろう?そしてこの人はいったい誰なんだろう?
「ああ、君。疲れているようだからそのままで。……トメさん、おかゆをお願いできるかな?」
トメさんと呼ばれた女性がいそいそと部屋の外へ出ていく。ここは……研究所ではないことは間違いないようだ。ふわりとバラの香りが漂う、日差し溢れる暖かな部屋。
「心配しないで、君の体を癒すことを考えて。」
天之橋一鶴、と名乗るひげを生やした英国風紳士然としたこの男性を信用していいのだろうか。それにどうして僕に構うのだろう?僕は……僕はこうして優しくされてた経験がほとんどない。だからこういう場合どうしていいのかわからない。
土鍋に入った真っ白な粥。そっと一匙口に運ぶ。……熱いっ。思わず声が出る。一口運ぶたびに一粒、涙が流れ落ちる。僕にも……少しは人間としての感情が残っていたようだ。
 月の光には魔力があるという。昨夜の月光は僕に魔法をかけたのだろうか?


(end)


若王子先生の過去って気になりますよね?
公式ではこのSSのとおり。「森林公園で天之橋氏に助けられた」なのですが、個人的には「天之橋邸前で行き倒れ」だと思いますw
今後も若王子先生の過去については書いていく予定ですので、気長にお待ちを。